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日本橋

バーのお客さんからのクイズ。
『日本橋は元々なんだった?』
答えられなかったが、正解は『魚河岸(うおがし)=魚を専門に扱う市場(卸売市場)』。
このクイズを切っ掛けに日本橋について調べてみよう。

概要

東京都中央区にある橋の名前。またその周辺地域の地名。
江戸時代初期から続く、東京の歴史と商業の中心地。

歴史

江戸の中心

1603年、徳川家康が江戸幕府を開き、江戸城の東側に町人地(商業エリア)を整備。
五街道の起点(東海道・中山道などの出発点)となる。
それまでの日本の中心は京都だったが幕府が置かれた江戸が実質的な政治の中心となる。
政治の中心 = 交通の中心にする必要があった。
京都 = 天皇の都
江戸 = 実務と経済の中心

五街道とは

江戸幕府が参勤交代や物流の安定化のために整備した、江戸(日本橋)と各地を結ぶ5つの主要な幹線道路。

  • 東海道:江戸~京都(海沿い)
  • 中山道:江戸~京都(山間部)
  • 甲州街道:江戸~下諏訪(甲斐方面)=現在の長野県・下諏訪町の南側(山梨県・甲府方面へ向かう出口側)
  • 日光街道:江戸~日光(東照宮への参詣路)
  • 奥州街道:日光街道から分岐し白河(東北方面)へ

魚河岸の町

日本橋魚河岸(にほんばしうおがし)は、江戸時代初期(1603年頃)に開設された魚市場。
江戸および東京の台所として300年以上にわたり栄えた。
徳川家康が大阪の佃(つくだ)村から漁師たちを呼び寄せ、江戸湾内での漁業の特権を付与。
幕府へ献上した魚の余りを販売したことが始まり。

関東大震災(1923年(大正12年)9月)後に築地へ移転(1935年(昭和10年)2月)。
=東京都中央卸売市場開設。
2018年(平成30年)豊洲市場業務開始。築地市場廃止。

橋そのもの

1603年、徳川家康が江戸幕府を開いた年に架橋。木造橋。
江戸の都市計画の中心として造られ、五街道の起点となる。
明治時代に入り、近代化の流れで石造アーチ橋に改築。
石造2連のアーチ橋で明治44(1911)年に完成。
橋の中央にある麒麟像は「東京の繁栄」を象徴。

麒麟と獅子といった東洋的なモチーフを採用。
柱の模様に一里塚を表す松や榎木を取り入れている。

近代商業の中心地

日本橋はもともと全国流通のハブであり、明治維新で政治体制は変わっても、商人ネットワークや物流機能はそのまま活用できた。

「江戸の商業中心」→「東京の近代経済中心」へと連続的に発展した。

慶応4年(1868)7月17日、明治天皇の詔書(公式命令)により、江戸は「東京」と改称された。その後、天皇の東京行幸や政府機関の移転により、東京は事実上日本の首都となった。

  • 政府機関が集中
  • 人口が急増
  • 全国から資本が集まる

政治中心=経済中心になり、その中心街だった日本橋はさらに発展。

近代化に伴い、

  • 銀行
  • 証券業
  • 保険会社

が日本橋周辺に集まった。
代表例:日本銀行本店

金融の中心ができると自然と商業資本が集まる。
呉服店から発展した日本橋三越本店が、1904年に「デパートメントストア宣言」を行い、日本初の本格的百貨店となった。

  • 定価販売
  • 陳列販売
  • 西洋式建築

これが近代商業の象徴となり、日本橋は『新しい消費文化の中心』となった。

重要文化財

豆知識

日本国道路元標

橋の中央には「日本国道路元標」があり、日本の道路距離はここを基準に測られている。

佃煮

徳川家康に大阪・佃村から呼び寄せられた漁師たちが、江戸の佃島で売り物にならない小魚や貝を醤油・砂糖で煮詰めて保存食にしたのが始まり。
安価で日持ちするため江戸庶民に広まり、後に全国へ普及した。

家康がなぜ大阪の佃村の漁民を呼び寄せたのか

1582年の 本能寺の変 で主君・織田信長が急死した際、同盟者であった徳川家康は滞在中の堺から伊賀の険しい山中を通り三河国へ命からがら逃げ帰った=『伊賀越え』。
この逃避行の際、大坂・佃村の庄屋 森孫右衛門 と漁民たちが、船の手配や水路の案内をして家康を助けたという。
家康はその恩義を忘れず、のちに江戸幕府を開いた後、森孫右衛門と漁民たちを江戸へ招いた。
彼らは現在の 佃島(中央区)に移住したと伝えられている。

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